赤穂浪士の討ち入り、忠臣蔵ってほんとは何なの?

史実に見事な色づけ

当時の庶民に受けるように美化

12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日です。これは、旧暦なので、現在では1月31日ごろだと言われています。

さて、忠臣蔵は、近松門左衛門が描いた『仮名手本忠臣蔵』の物語が広まったもので、赤穂浪士の討ち入り事件として評判になったものです。

実際は、この赤穂浪士の討ち入り事件については、公文書の類はまったく残っていないそうです。では、実際の所はどういう事件だったのでしょう。

切りつけた本当の理由は「謎」

事実としての「江戸城での事件」「殺人未遂」

討ち入りの相手となった、吉良上野介義央(きら こうづけのすけ よしひさ)は当時、幕府と朝廷の儀式作法を教える高家(こうけ)という家柄でした。

身分はそれなりに高いのですが、大名からの礼金や贈り物も必要不可欠だったようです。
贈り物を渡す方も、きちんと作法を教えてもらいたいので、それなりに高額の礼金を夭死することになります。

これに対しての対応は、物語の上での脚色が多く、事実かどうかは全くわかっていないそうです。

物語では、赤穂藩の大名である浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が吉良上野介から意図的に嫌がらせを受けたというものです。

それが鬱憤として溜まって、最後には刃傷沙汰を起こしてしまいます。その場面はまさに物語としての演出がほとんどで、事実はわかりませんね。

処分については「妥当」といえる

当時の幕府の対応に対する不満は描かれない

物語は一般受けを考えていますし、上演する上で困らないように、幕府に対しての意見は入らないわけです。

綱吉も浅野家を許すわけにはいかなかったと思います。やはり、事件としての重みは間違いないもんですし、今日からの使者の手前、適当に処理したでは通用しなかったのでしょう。

結局、城主の非行により、浅野家そのものが取り潰されます。浪士にしたら、主の非よりも、そこまで追い詰められて、やむにやまれず刃傷沙汰に至ったという部分のみが問題なわけです。

ドラマとしての過剰演出が一人歩き

現実は、至極当然の結果に

赤穂浪士らが吉良邸に討ち入ったのは午前4時頃です。当日、雪は降っておらず、積雪を月光が照らしていたのではないかと考えられています。

さて、浪士たちの討ち入りの時の服装ですが、芝居での演出は事実とは異なるようで、実際は黒の小袖を着て、袖ふちに白いさらし布をつけて、右袖のさらし布には墨で姓名が書かれていたそうです。

これは、討死した時の目印とするものだったとか。さらに鎖帷子を着込み、鎖入りの手甲、脚絆を用い、帯にも鎖が入っていたそうです。

討ち入りは表門と裏門の二隊に別れて突入しています。戦闘は午前4時から2時間あまりかかり、隠れていた吉良上野介の首を挙げて決着したんですね。

吉良方の死者は17人とも19人ともいわれています。しかし、赤穂浪士側に死者はなく負傷者が4名いただけ。これは、先ほどの完全武装のおかげだったようです。

吉良邸の広さは2550坪もありました。暗闇の中、吉良の家臣と戦いながら、そこから吉良を探し出すのは、かなり困難を極めたと考えられますね。

今なお支持される武士の本懐

史実の赤穂浪士も、武士としての振る舞いは見事だったようで、本懐を遂げた後の行動も整然としたものだったようです。

最終的には、成功しても死罪は免れないことは承知の上だったわけですから、それでも実行するという武士の心情が、多くの人々に支持されている理由かも知れませんね。

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