浅草寺の縁日と功徳日の由来、ほおずき市の意味と三社祭の歴史と行事

浅草の夏の風物詩ほおずきの屋台

縁日とは?

そもそも、縁日とは何なのか、ただ単に、屋台が並ぶ行事、みたいな感じで、それが何なのか、真剣に考えたこと、なかったのが普通ではないでしょうか。

この縁日というのは、神仏と特別なご縁のある日のことなんだそうです。「有縁の日」「結縁の日」「因縁の日」とも呼ばれているんです。

この日は、神仏の降誕や誓願などの特別な日で、年や月の初めや終わりや、別の決まった日で、その日にお参りすれば大きな功徳や御利益がある日だと言われています。

例えば、薬師如来なら毎月8日、金毘羅さんは毎月10日、虚空蔵菩薩なら毎月13日といった日が縁日で、その日は各地の神社仏閣に多くの人がお参りに訪れるわけです。

四万六千日の縁日は功徳日

四万六千日の縁日は功徳日と呼ばれ、縁日とは別に、室町時代以降に設けられた特別の日なんだそうです。

その日にお参りすれば、数十日から数百日、数千日お参りしたのと同じだけの功徳があると定められた縁日のことです。

だから、四万六千日の縁日は、四万六千日のお参りの功徳をいただける日ということになるわけです。

ほおずきの市が立った由来

愛宕神社のほおずき市の影響

四万六千日の縁日は、浅草寺にならって他の寺社でも行なわれるようになりました。そして、芝の愛宕神社で、四万六千日の縁日にほおずきの市が立ったんですね。

「ほおずきの実を水で鵜呑みすれば、大人は癪を切り、子供は虫気を去る」といった民間信仰と合体し、愛宕神社では、ほおずきを求める人で賑わいました。

その愛宕神社のほおずき市が、大本である浅草寺にも影響して、ほおずき市が立ったわけです。

ちょうどお盆の時期で、ほおずきを盆棚飾りにもつかえるわけです。9日と10日の両日、売り子たちが声をからしてほおずきを売ります。

境内は朝早くから参拝者が訪れ、観世音菩薩の功徳に感謝するのです。そして、ほおずき市で健康を祈るわけです。

雷除札の由来は?

落雷除けのお守りの赤とうもろこし

昔、四万六千日の縁日に赤とうもろこしを売る屋台があったそうです。これは、赤とうもろこしが落雷除けのお守りという民間信仰があったからです。

ところが、明治になったころ、赤とうもろこしが不作で出回らなくなり、かわりに浅草寺に雷除けのお守りを求めたそうです。

そこから、浅草寺では竹串に挟んだ三角形の守護札を授けることになったというわけです。それが四万六千日の縁日の雷除札なんですね。

浅草寺の由来

1400年近い歴史をもつ観音霊場

浅草寺の歴史は、1400年にもわたる観音霊場です。言い伝えによると、本尊が現れたのは、飛鳥時代だということになっています。

隅田川のほとりで、浜成・竹成兄弟が漁をしていたとき、投網の中に一躰の像がかかったそうです。

仏像のことはわからないので、浜成・竹成兄弟は、像を水中に投げいれて、場所を変えて漁をしたのですが、いくらやっても、この像が網にかかったので像を持ち帰ったのです。

土地の長にその像を見てもらうと、観音菩薩の像だとわかり、翌朝、里の童子たちでお堂に、この観音菩薩像を祀ったそうです。

やがて、観音菩薩像は寺へと安置されます。浅草寺に伝わる縁起には、この観音示現の日に、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じて、天から金の鱗をもつ龍くだったと記されています。

この瑞祥から、浅草寺の山号が金龍山になったという由来だそうです。また現在、浅草寺寺に伝わっている舞である「金龍の舞」も、ここからきているわけです。

三社祭とは

下町らしい雰囲気が満載

毎年、5月の第3日曜日になると、浅草ではお祭りがおこなわれます。それは、浅草神社の祭礼です。

とても下町らしい荒々しい雰囲気が特徴です。浅草地域を所狭しと練り歩く、すばらしいお祭りです。

現代のように、浅草神社が単体で祭りを執り行うようになって、発展していったのは明治に入ってからのことだそうです。

いつも多くのメディアにも取り上げられ、毎年、期間中には、約150万人の人出が見込まれるということです。

三社祭の由来

三社祭の三社という言葉の意味は?

628年のことです。4月15日の朝、漁師の桧前浜成、竹成兄弟が、隅田川で漁に精を出していたのです。

ところが、その日は一匹の魚も釣れず、網にかかったのは、ただ人の形をした像だけでした。

像を水中に投げたのでに、何度もその像は網にかかったのです。不思議に思い、その像を木の切り株に置きました。

それを、土師真中知という、地域の名士に相談しました。すると、土師氏は尊い聖観世音菩薩像だと教えてくれました。

そこで2人は、深く観音を念じて名号を唱え、大漁を願いました。その結果、大漁を得ることができたというのです。

さらに、土師真中知は僧となって、自宅を寺にして、観音像を安置したのです。そして、供養護持につとめました。

その後、土師氏の子孫が、桧前兄弟と土師真中知の3人を祀って、三社権現と称したそうです。

現在、三社さまとして親しまれている浅草神社は、この三社権現社が始まりだといわれています。

そして、三社の由来は、桧前兄弟と土師真中知の3人のことだということです。

三社祭の歴史

昔は、観音祭りだった

三社祭は、かつては3月17日、18日の両日に行われていたそうです。そして、丑、卯、巳、未、酉、亥と、一年おきの年に行われました。

江戸時代には大祭前夜、神輿を観音本堂の外陣に安置し、びんざさら舞は堂前の舞台で行われていたそうです。

そのように、祭りは浅草寺と一体となっっていて、観音祭または、浅草祭と呼ばれていたということです。

祭礼の中身は、今のように本社神輿をかつぐことよりも、むしろ氏子十八ヶ町や、片町、茅町、天王町、黒船町、三好町などから繰り出された山車が中心だったそうです。

各町は趣向をこらし、行列の勢いと絢爛さは半端ではありませんでした。昔の祭礼は蔵前筋や浅草橋の各町までの広範囲でした。

祭礼は山車の巡行、芸能の披露と、進み、その後、神輿三体を本堂からおろして、一之宮を先頭に浅草御門の乗船場まで担ぎました。

そして、船に神輿をのせ、隅田川を漕ぎあがって駒形から上陸して、浅草神社までかついで帰ったのです。

この船祭は江戸末期まで続きましたが、明治に入って廃絶しました。明治五年からは、祭礼は5月17日、18日になし、氏子各町に神輿の渡御を行う形に変わっていったそうです。

三社祭の見どころ

江戸の風情が色濃く残る名物祭り

江戸風情の残る下町浅草ですが、この場所が1年でもっとも活気づくのが、この三社祭です。いまでは、東京の初夏の風物詩になっています。

初日

お囃子屋台、鳶頭木遣り、浅草の各舞、さらに、芸妓連の手古舞や組踊りといった大行列が浅草の町を進みます。

これが、祭礼の始まりで、このとき、東京都無形文化財指定の、神事びんざさら舞も奉納されるのです。

二日目

例大祭式典が斎行されます。その後、町内神輿連合渡御によって浅草氏子四十四ヶ町の町内神輿約百基が神社境内に参集します。

その後、一基ずつお祓いを受けて、各町会を渡御するのです。

最終日

宮神輿として、三基、一之宮、二之宮、三之宮の各町渡御が、宮出しとして、神社境内から担ぎ出さます。

日中は氏子各町を三方面に分かれ渡御します。そして、いよいよ日没後に神社境内へ戻る「宮入り」で祭礼は終わります。

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