徳島の阿波踊りと高知のよさこい踊り、歴史も楽しみ方も全く違う祭り

400年の歴史、阿波踊り

踊る阿呆に見る阿呆

阿波踊りを知らない日本人は以内でしょう。世界的にもその名は知れ渡ってして、外国人の観光客も多数訪れます。

400年の歴史を持っている、世界にも知られた阿波踊り。最も大きな規模はご当地、徳島市の「阿波踊り」です。

毎年8月12日から15日まで4日間開催されます。人出も約130万人にもなり、、踊り子の人数も約10万人もの人が繰り出すわけです。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」と、中心街一円を踊りの渦に巻き込み、興奮のるつぼと化すのです。

起源と歴史

阿波踊りの起源

よく言われている、3つの説があります。

1.築城起源説

1587年に蜂須賀家政が徳島城が落としたときに、それを祝って城下の人々が踊ったのが阿波踊りの始まり、というものです。

2.盆踊り起源説

阿波踊りはもともと旧暦の7月に行われていた盆踊りからきているというものです。

3.風流踊り起源説

阿波踊りの特色である組踊りは、能楽の源流となる「風流」の 影響を強く受けています。その風流踊りが阿波踊りの原型だというものです。

江戸時代の阿波踊り

江戸時代後期、阿波藩は阿波踊りへの武士の参加を厳しく取り締まったのです。阿波藩は武士が阿波踊りに熱を入れることを恐れていたのです。

理由は、興奮した民衆が、不満を武士にぶつけることと、武士が一緒に踊れば、民衆が武士と近くなり、支配体制が崩れることだったんですね。

阿波踊りを広めた原動力が当時莫大な資産をもった阿波の藍商人だったそうです。豪遊をして、当時の阿波踊りをより洗練されたものに育て上げたといわれています。

藍商人の豪遊につられて、他でも阿波踊りが接待に使われました。一般の商家では子どもに三味線などの鳴り物を習わせ、踊らせたそうです。

こういったことが庶民の間にも根付いていき、結果として、だれでも踊れる阿波踊りの原型が形成されていったのではないかといわれています。

300年の伝統を受け継いで

3日間踊り続ける阿波踊り

明治になっても徳島の盆踊りは江戸時代からの300年の伝統が受け継がれます。それは、誰もが気軽に参加でき、自由に踊れることだったのです。

当時の阿波踊りは三日間、昼夜を問わずぶっ通しで踊り明かしていたといわれています。そこへ、日清・日露戦争の勝利があり、徳島でも「祝勝阿波踊り」が開かれたのです。

この戦争をきっかけに、阿波踊りはお盆以外に景気づけやお祝いに踊るようになっていきました。

大正時代も、阿波踊りをリードしていたのは、花柳界の芸者たちで、優雅で風情のある芸者の踊りは、県内外から多くの見物人を集めました。

しかし、戦争によって、阿波踊り長く沈黙を強いられます。ところが、昭和16年4月に東宝映画で「阿波の踊り子」という作品がつくられ、ロケが徳島市内で行われます。

5年ぶりの阿波踊りに多くの踊り子のエキストラの芸者が殺到し、猛練習したそうです。
しかし、その後も戦争のため、阿波踊りは中止になり、終戦を迎えます。徳島の街も灰となり、住む家も食べる物もなくし、生きることに精一杯だったのです。

そんな中、昭和22年8月に、ついに徳島の焼け跡にぞめきのリズムが響き渡ります。みすぼらしい衣装、着物がない踊り子は裸の体に鍋の炭を塗って踊ったそうです。どの顔にも平和な時代を迎えた喜びが満ち溢れていたのです。

戦後の復興とともに

昭和24年、戦災からの復興を願って、徳島駅前広場で阿波踊りが開催されたのです。躍動感あふれる阿波踊りが徳島の復興のシンボルとして、支持されます。

新しい建物や道路が建設され、戦災の爪痕も消え、復興が成し遂げられたことを確信していきます。

時代とともに踊りも少しずつ変化します。以前は腕を下げていたのが、現在は両腕を高く突き上げる美しいフォームへと変化していったのです。

桟敷から見下ろされることで、踊り子の手が上へ上がり、参加する踊りから見せる踊りへ変わっていったといわれています。

戦前には20人程度だった連も、戦後、大型化し、100人規模にふくれあがっていきます。

鳴り物も三味線などから、鐘や太鼓といった打楽器が中心へと変わり大音量と大編成、一糸乱れぬ組織力といった阿波踊りが現在の主流になっていったわけです。

阿波踊りの実施日

徳島市の阿波踊り

現在では、阿波踊りは徳島県内だけでなく、全国でも数多く開催されているのですが、やはり、日本最大規模は徳島市の阿波踊りです。

期間は8月12日から15日までの4日間です。本番前日の11日から、「選抜阿波踊り大会前夜祭」がおこなわれます。

また、11日には、「阿波踊り振興協会」と「徳島県阿波踊り協会」の演舞が行われて、必見です。

期間中には選抜阿波踊り大会が行われ、「阿波踊り振興協会」と「徳島県阿波踊り協会」所属の連が、毎日それぞれ3連ずつ出演して踊ります。

ここで見られる、ステージ上での洗練された阿波踊りは、野外での阿波踊りとはひと味違った趣があるようです。

戦後に始まった新しい祭り

今や、全国的に知れ渡った

よさこい祭りは毎年8月9日から12日までの4日間、高知市で行われる盛大な祭りです。

9日は前夜祭、10日、11日は本番2日といい、12日は後夜祭とさらに全国大会を行います。

場所は、高知市内9カ所の競演場と7ヶ所の演舞場です。約200チーム、総勢約18000人が鳴子を持って、踊り子は工夫を凝らします。

地方車に華麗な飾り付けを施し、市内を乱舞して盛り上げていきます。まさに、土佐のカーニバルです。

この祭りのきっかけは、戦後、荒廃した市民生活が少しずつ落ち着き取り戻し始めた、1954年(昭和29年)8月に第一回が行われました。

そのころの不況を吹き飛ばし、市民の健康と繁栄を祈願し、商店街振興を促そうと、高知商工会議所が中心となって始めたのです。

第1回の参加人数は750人で参加団体は21団体だったそうです。それが、第30回にはついに踊り子人数1万人を突破したんですね。

よさこいもどんどん新しいものを取り入れて、チームも個性化が進み、音楽、髪型、衣装もグローバルになっていきました。

それが、見物人を飽きさせることのない、熱気ある祭りを盛り上げる要素のにっているように思います。

よさこい祭りの歴史

お座敷踊りから脱皮

今までの、お座敷踊りであったよさこい踊りを祭りのレベルまで引き上げようという、かなり意欲的な取り組みだったようです。

きっかけは1950年年3月に高知県で行われた南国博です。このとき、芸能館で画期的な取り組みが発表されました。お座敷踊りから様変わりした「新しいよさこい踊り」が披露されたのです。

1953年4月に入交太兵衛氏が「商店街に顧客を呼び込むような人が集まってくる何かをしよう」と発言しました。

それをうけて、1954年4月に商工会議所と高知市の共催で「よさこい祭り」を8月に開催することを決定したわけです。

この後、作曲家である武政英策氏に歌詞と曲を依頼して作られたのが「よさこい鳴子踊り」です。

1954年7月には、よさこい祭振興会が発足し、歌と踊りを発表しました。それから60年。

今では、、日本有数の祭りとして知れわたりました。そして、全国から多くのよさこいファンが集まってくるようになったのです。

必死で全国に広めた踊り

みんなが参加できるように工夫

1954年の第1回によさこい鳴子踊りが披露されたのは、特設の舞台上でした。

高知商工会議所の有志が、経済復興の足掛かりとして祭りを企画して、県や市が賛同して誕生したのが、よさこい祭りです。

8月10日午後1時に、打ち上げ花火とサイレンの合図で祭りが開幕しました。その時に参加したのは21団体です。

750人の踊り子が、高知公園の競演場や、帯屋町といったところで、「よさこい鳴子踊り」を披露したのです。

ペギー葉山が歌った『南国土佐を後にして』が全国的に大ヒットします。そして、1959年の第6回よさこい鳴子踊りが映画になったのです。

よさこい祭りは、いよいよ、全国に知られるようになったわけです。そして、ラジオ高知テレビが実況生中継を開始します。

NHKの郷土民謡全国大会に出演し、市民の祭りが高知県民の祭りへと浸透していきました。

よさこい、全国大会実現

自由な表現がよさこいを全国区に

1992年、よさこい祭りに魅せられた北海道の学生が、「YOSAKOIソーラン祭り」を開催します。それが、全国に波紋を投げかけました。

その後、日本各地で次々とよさこい祭りが催されます。その状況がいよいよ、1999年の第46回目にして、よさこい全国大会が実現しました。

そして、各県の代表と、地元の受賞チームを加えた33チームが、後夜祭で乱舞したわけです。

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