「世の中の多数の人が正しい、と思っていることが、自分にとっては正しくない、ということはあってもおかしくないんだ。物事を正しいかどうか、で判断するのは危険を伴うものだと考えた方がいい。それは、多数の人が正しい、と思うことは居心地がいい、ということに過ぎない。」
正しい判断、という言葉があります。
適切な判断、というのとは少し違うみたいです。
本当に必要なのは、適切な判断のはずですが、世の中が求めているのは、正しい判断だったりするわけです。
正しいかどうかを決めるのは、道徳観であったり、倫理であったり、法律であったり、宗教であったりと様々です。
要するに、どこか「偏っている」んです。
総合的に鑑みて、なんていうことはそこには必要がありません。
〇〇に照らし合わせて、正しいかどうか、というのは、場合によっては、こういうことも起こり得ます。
別の見方を持ってすれば、それは間違っている、と。
もっとはっきり言えば、社会が正しい、と言っても、自分にとっては正しくない、ということもあり得るのです。
逆に、自分にとっては、正しいことも、社会的にはずれてしまっていることもあるでしょう。
”物事を正しいかどうか、で判断するのは危険を伴うものだ”ということは肝に銘じておくべきものです。
最近の事案でいえば、新型コロナウィルスが流行した時に、「マスク警察」なる行動が話題になりました。
もっと極端な例で言えば、戦争中に「非国民」と言って、戦争を否定する人を貶めたということはあまりにも有名です。
しかし、逆に言えば、その正しいことを貫こうとしている人たちは、自分たちが多数派であり、そこで止まることは「居心地のいい」行動だということです。
居心地の悪い少数派が、後になって正しかった、なんてことも歴史的にはたくさん起こっています。
安易に居心地のいい、多数派に迎合することは、今一度考えてみて、それから行動すべきでしょう