仙台七夕まつり
田の神を迎える行事
七夕祭の行事の由来は、中国の乞巧奠=きっこうでんという星祭りからきています。ようするに、織り姫と牽牛の物語ですね。
仙台で七夕祭が催されるようになったのは伊達政宗の時代だといわれています。そして、その中身は、中国の七夕とは趣を変えて、日本固有の信仰に結びつきました。
「仙台七夕まつり」は田の神を迎える行事なんですね。これは、先代を襲った冷害の歴史が深く影響しているそうです。
東北地方では、昔から周期的に例外に襲われてきました。天明3年には25万人、天保7年は30万人の死者を出したという、悲惨な歴史があるのです。
それを乗り越えたいと、豊作を田の神に祈ったことが、仙台で七夕まつりが盛んになったと言われています。
仙台独特の7月6日の七夕
もとは旧暦の7月7日
七夕まつりそのものは、本来、旧暦の7月7日の行事です。仙台もその例外ではなかったと言われています。
七夕の祭りが7月7日に行われて、8日の朝に竹に飾り物をつけたまま、川に流していたそうです。
しかし、仙台藩主第7代伊達重村の時から、1日繰上げて、旧暦の7月6日の晩に飾って、7日の朝に流すというふうに変わったようなんですね。
それは、伊達重村の娘が亡くなったことで、7日の節句のお祝いをしなかったのです。そこで、前日に七夕の行事をした、という由来があるそうです。
結局、6日の夕方から、笹竹を飾って姫星と彦星を祭り、手習や手芸の上達を願うとともに、農家では田の神の乗馬として藁などで七夕馬をつくって豊作を祈ったのです。
仙台では、七夕の笹のついた竹の小枝を落として物干竿に使用しました。小枝は七夕飾りとともに7日朝に広瀬川に流し、水を浴び、洗い物をしたそうです。
この日を七日浴とも七日盆ともいいました。七夕は、「みそぎ」をして盆祭に入る準備をする日だったわけです。
衰退していった七夕まつり
昭和になって復活したまつり
明治維新になると、七夕まつりは、全国的に衰退していきます。明治6年に新暦が採用されると、いよいよ行われなくなっていったそうです。
そんな中、昭和2年に不景気を吹き飛ばそうと、商家の有志達が集まって、仙台商人の心意気とばかりに、華やかな七夕飾りを復活させたそうです。
町内一斉に七夕の飾りつけをして、久しぶりにその光景を目にした仙台の人たちは大喜びで、飾りを一目見ようとする人が町中にあふれたといわれています。
昭和3年には、旧暦行事だったものを、新暦の月遅れの8月6日、7日、8日の3日間に行うようにしました。
さらに、東北産業博覧会の行事として、さらに仙台七夕をアピールしようと「飾りつけコンクール」が催されたそうです。
8月6日の夕方から一斉に飾りつけをしました。そして、3日2夜にわたる七夕が復活したのです。
様々な趣向を凝らした七夕飾りで、街はお祭りムード一色になります。この年は仙台七夕の完全に復活の記念すべき年といわれています。
しかし、残念ながら、勃発した戦争で七夕飾りは街から消えていったのです。次の復活までは、終戦を待たなければなりませんでした。
終戦後、復活したまつり
10年ぶりの七夕祭り
終戦の次の年、昭和21年に、一番町通りの焼跡に52本の七夕の竹飾りが立てられたのです。
当時の新聞には「10年ぶりの”七夕祭り”涙の出るほど懐かしい」の見出しで大々的に報じられたのです。
さらに、昭和天皇が巡幸された昭和22年のまつりでは、沿道に5000本の竹飾りが七色のアーチをつくりました。それをきっかけに、七夕隆盛へと向かいます。
その後、仙台の七夕まつりは、観光イベントへと変貌していき、飾りだけでなく、ステージイベントやおまつり広場まで拡大しました。
今や、七夕まつりとしては、名実ともに日本一のスケールを誇るようになり、毎年全国から多くの観光客が訪れるようになりました。
仙台七夕は、豪華な飾り付けが目立ちますが、伝統の七つ飾りはどの竹飾りにも下げられています。
さらに、本物の和紙で作られる手作りの七夕飾りなどが、400年続く仙台七夕の伝統を現代にも伝えているのですね。
そして、仙台七夕まつりは新しい試みを加えながら、仙台の誇れる文化として、次世代へと継承されていくのです。